退職を申し出た直後に、上司や人事から「給料を上げるから残ってほしい」と言われる。この提示をカウンターオファー(引き止め交渉)と呼びます。判断を難しくしているのは、提示された金額が多いのか少ないのかを比べる相手が手元にないことと、いったん退職の意思を伝えた後にどこまで巻き戻せるのかが分からないことの二つです。この記事では、その二つに公的統計と条文・判例で基準線を引きます。
まとめ:返事をする前に確認する5点
- 提示額を通常の賃上げと比べる。2025年の1人平均賃金の改定額は13,601円、改定率は4.4%(厚生労働省・常用労働者100人以上の民営企業が対象)。これは他社を含む平均値で、自分の通常昇給額を示すものではない。提示が自社の通常改定分への上乗せか、翌年分の前倒しかを確認する。
- 自分が辞める理由が金銭かを確かめる。2025年に転職した人が前職を辞めた理由のうち「給料等収入が少なかった」は男性9.9%・女性8.6%にとどまる(厚生労働省 令和7年雇用動向調査)。金銭が主因でなければ、昇給は処方として外れている。
- 受諾後の実績を知っておく。カウンターオファーを受け入れてから半年以内に退職した会社員は38%、半年後から1年以内は21%(ロバート・ウォルターズ・ジャパン 給与調査2024)。35歳以上の転職希望者では、引き止めを受けた人のうち転職をとりやめたのは20%だった(『ミドルの転職』2026年1月発表)。
- 撤回できる期限を確認する。退職願は会社の承諾が届くまでは撤回できる余地があるが、承諾された後は撤回できない(白頭学院事件・大阪地判平成9年8月29日/大隈鐵工所事件・最高裁昭和62年9月18日判決)。残る可能性を残したいなら、書類を出す前に話す。
- 受け取りを拒まれても退職はできる。期間の定めのない雇用では、辞職の意思表示が会社に到達してから2週間で契約が終わる(民法627条1項)。会社が正当な理由なく受け取りを拒んでも、通常到達すべきだった時に到達したものとみなされる(民法97条2項)。
以下、それぞれの根拠と、返答までの具体的な進め方を示します。
カウンターオファー(引き止め交渉)の定義と提示される条件
カウンターオファーとは、退職の申し出を受けた会社が、残留を条件に昇給・昇進・異動・勤務条件の改善などを提示することです。英語の契約交渉用語 counter-offer(相手の申込みに対し、条件を変えて出し直す申込み)が人事の場面に転用されたものです。
提示を受けるのは、直属の上司との退職面談か、その後に設定される人事・部門長との二度目の面談が一般的です。転職先の内定を得た後に切り出したなら、返答に使える時間は入社日から逆算した範囲に限られます。まず自分の回答期限を確定させてください。
引き止めで提示される条件の種類と頻度
何を提示されやすいかは、聞く相手によって数字が変わります。エン・ジャパンが転職サイト『ミドルの転職』を利用する転職コンサルタント230名に尋ねた調査(2025年8月21日〜27日実施・2025年9月30日発表)では、引き止めの手段として多いものの1位が「年収アップの提示」62%、2位が「後任者が見つかるまでの期間延長の要請」55%でした。
一方、同じサイトを使う35歳以上の本人2,247名に聞いた調査(2025年9月9日〜11月9日実施・2026年1月7日発表、発表元は2025年10月に商号変更したエン株式会社)では、引き止めを受けた人の手段の上位は「上位役職者による、感情を交えた説得」53%、「後任が見つかるまでの期間延長の交渉」22%、「条件の提示(希望部署・職種への異動)」20%です。コンサルタントの目には年収アップが目立ち、本人の体験では「君が必要だ」型の説得が最も多い。ただし、これらの調査から、説得の後に昇給提示へ進むという交渉の順序までは分かりません。
「辞めると言ったら昇給した」という状況は、平時の評価・賃金改定とは別の、退職の申し出をきっかけにした例外処理で金額が決まったことを意味します。この性質が、後で見る「前借り」や「残留後の扱い」の問題につながります。
「引き止める」と「引き留める」の書き分け
文化審議会国語分科会報告「『異字同訓』の漢字の使い分け例」(平成26年2月21日)は、「とまる・とめる」の項で「止まる・止める」を「動きがなくなる」、「留まる・留める」を「固定される。感覚に残る。とどめる」と説明し、後者の例に「心に留める」「留め置く」を挙げています。退職を思いとどまらせる意味は「とどめる」に近く、語義の上では「引き留める」が合います。
ただし同報告の全文に「ひきとめる」の用例は載っておらず、求人・人事の実務文書では「引き止め」の表記も広く使われています。どちらかが誤りというわけではありません。退職面談の記録や社内規程では表記を一方に統一しておけば足ります。本記事では「引き止め」で表記を統一し、引用部分は原文の表記を残しています。
引き止めを受け入れた人のその後
受諾後の在籍期間(給与調査2024)
人材紹介会社のロバート・ウォルターズ・ジャパンが2024年1月25日に公表した「給与調査2024」に、受諾後の在籍期間の実数があります。調査期間は2023年9月から10月、対象は国内企業と外資系の日本法人170社、および同社に登録のある国内で働く会社員1,423人です(同社のプレスリリース)。
| カウンターオファー受諾後の在籍期間 | 割合 |
|---|---|
| 半年以内に退職 | 38% |
| 半年後から1年以内に退職 | 21% |
| 5年以上その企業に勤務 | 14% |
受け入れた人のおよそ6割が1年以内に辞めている計算です。別の設問では、勤務先から申し出があった場合に「引き止め交渉に応じる可能性がある」と答えた会社員が41%おり、応じる条件として挙がったのは昇給が81%と突出し、昇進41%、働き方等の柔軟性向上37%が続きます。応じる可能性はないと答えた人の理由は、1位が「一度決めたので心変わりはしない」27%、2位が「自分の長期的なキャリア目標と合っていない」21%、3位が「長期的な仕事満足度の解決策ではない」と「辞めようと思った理由に対する解決策ではない」の同率19%でした。
この6割という数字は「引き止めは無意味」の根拠として引用されがちですが、母集団は転職支援会社に登録している会社員で、転職意向が強い層に偏っています。退職を申し出た人全体の代表値として読むのは適切ではありません。受諾条件に昇給を挙げる人が81%いることと、受諾した人の6割が1年以内に辞めていることは別の設問への回答で、クロス集計は公表されていません。この二つの回答だけでは、昇給を実際に受けた人の退職率や、昇給による引き止めの効果は判断できません。
引き止めで転職をやめた人の割合(ミドルの転職 2025・2026)
前述の本人調査では、転職を切り出した35歳以上のうち53%が在籍企業から引き止めを受けていました。その人たちの最終判断は次のとおりです。
| 引き止めを受けた回答者の最終判断 | 割合 |
|---|---|
| 転職した | 66% |
| 一度は引き止めに応じたが、その後改めて転職した | 14% |
| 転職をとりやめた | 20% |
コンサルタント調査では62%が「思いとどまるのは1割未満」と答えており、本人調査の20%とは開きがあります。コンサルタントの印象と本人の回答では調査対象と質問形式が異なるため、この差の理由は両調査だけでは特定できません。どちらの数字でも、引き止めで残る人は少数派です。また、引き止めを受けた人の14%が、一度は応じた後に転職している点は、ロバート・ウォルターズ調査の「1年以内に約6割が退職」と同じ方向を指します。なお、残留してから1年以内に辞めても、その会社での在籍期間が延びるだけで、職歴上の社数は増えません。社数や在籍年数が採用側にどう見られるかはジョブホッパーとは?何年・何回が目安か、企業の見方と短期離職で損をする制度で整理しています。
提示額の判定基準:上乗せか前借りか
金額の妥当性は、自社が普段どれだけ賃金を上げているかと比べないと判断できません。厚生労働省「令和7年賃金引上げ等の実態に関する調査の概況」(2025年10月14日公表)は、常用労働者100人以上の民営企業3,643社を抽出し1,847社から有効回答を得た調査で、2025年の1人平均賃金の改定額は13,601円、改定率は4.4%でした(前年は11,961円・4.1%)。2026年10月18日時点では、令和8年の同調査はまだ公表されていません。
| 区分 | 1人平均賃金の改定額 | 改定率 |
|---|---|---|
| 全体 | 13,601円 | 4.4% |
| 労働組合あり | 15,229円 | 4.8% |
| 労働組合なし | 11,980円 | 4.0% |
| 5,000人以上 | 16,784円 | 5.1% |
| 100〜299人 | 10,264円 | 3.6% |
| 建設業 | 20,724円 | 5.9% |
| 医療,福祉 | 5,589円 | 2.3% |
ここでいう1人平均賃金は所定内賃金の1か月1人当たり平均額で、定期昇給とベースアップ、諸手当の改定を合わせた結果です。月給30万円の人にとって4.4%は月13,200円にあたります。つまり「月1万円上げる」という提示は、労働組合のない企業の平均改定額11,980円を下回ります。ただし、他社の平均から自分の通常昇給額は分からないため、自社の改定実績や今回の通常改定分と比較してください。自社の規模・業種の行に当てはめて比べてください。
確認すべきは金額そのものより原資です。「来年4月の改定に上乗せされるのか、来年分を前倒しするのか」を必ず聞いてください。翌年分の前倒しであれば、翌年の改定額が減る可能性があります。残留と転職の比較では、適用開始月や賞与も含めて2年間の収入をそれぞれ計算してください。等級や役職が動くかも同時に確認します。等級が変わらない昇給は賞与の算定基礎や退職金の計算に反映されないことがあり、年収ベースでは提示額ほど増えません。制度としての賃金の上がり方は賃金カーブとは?令和7年調査の実数と2026春闘の維持分5,430円で整理しています。
会社側の動機と引き止められやすい人の属性
退職に伴う欠員と補充採用の費用
会社側の動機は、欠員による業務の停滞と、補充にかかる費用です。マイナビ「中途採用状況調査 2026年版(2025年実績)」(2025年12月に人事担当者1,500名を対象に実施)によると、採用者1人あたりにかかった転職サイトの求人広告費は全職種平均で36.7万円、ITエンジニアは57.1万円、AI技術者は59.9万円でした。人材紹介はこれと別で、同調査が設問中で「紹介された人材を採用した段階で、年収の約30%程度の費用が発生する」と定義するとおり、年収600万円の職なら180万円前後です。しかも2025年の中途採用人数は1社平均12.3人で、平均の採用目標16.7人の73.3%にとどまります(目標を達成した企業の割合は92.9%で、採用目標の下方修正が影響している可能性を同調査は挙げています)。募集をかけても埋まらない前提で見れば、在籍者の賃金を数%上げるほうが短期的には安く、確実です。
提示額は、その人の価値の総額ではなく「いま抜けられると困る度合い」に連動します。
引き止めの対象になりやすい社員層と業務状況
同じマイナビ調査では、2025年に退職者がいた企業の人事担当者に、その退職が業務や経営にとって痛手だったかを尋ねています。「痛手だった」の割合が最も高いのは勤続年数5年以上の中堅正社員で56.4%、次いで20代の正社員54.9%、30代の正社員50.7%でした。痛手の内容は、中堅正社員では「業務負荷が増えた」39.3%と「後任が決まらず業務が滞った」28.3%が上位で、対処法も「業務を他の社員に再配分した」41.2%と「残業で対応した」33.1%が並びます。
状況の面では、前述のコンサルタント調査で「引き止められる可能性が高い状況」の上位が「後任が不在の場合」65%と「進行中のプロジェクトに関わっている場合」45%でした。年齢より、後任と業務の山が引き止めの強さを決めています。強く引き止められるのは次の条件が重なる場合です。
- 後任が決まっておらず、社内に代替できる担当がいない
- 進行中のプロジェクトや期末・繁忙期と退職日が重なる
- 担当業務が属人化していて、手順が文書に残っていない
- 資格者の在籍が要件になっている業務を担っている
ここで注意したいのは、引き止めを「評価されていた証明」と読み替えないことです。評価が高いことと、いま辞められると困ることは別物。引き止めの提示だけでは、従来の評価が賃金に適切に反映されていたかは判断できません。今回の昇給理由と、今後の評価・改定基準を確認してください。自社の離職の水準を統計と比べる方法は離職率の平均は13.7%:令和7年の産業別・規模別の値と自社比較の目安で扱っています。
退職理由と昇給提示のミスマッチ(令和7年雇用動向調査)
厚生労働省「令和7年雇用動向調査結果の概況」(2026年8月31日公表)で、2025年に転職した人が前職を辞めた理由を見ると、男性は「その他の個人的理由」16.8%と「その他の理由(出向等を含む)」12.1%を除くと「定年・契約期間の満了」16.1%が最も多く、次いで「給料等収入が少なかった」9.9%です。女性は「その他の個人的理由」23.8%を除くと「労働時間、休日等の労働条件が悪かった」12.9%が最多で、「職場の人間関係が好ましくなかった」11.5%が続き、「給料等収入が少なかった」は8.6%でした。
この調査の転職入職者では、「給料等収入が少なかった」を前職の離職理由に選んだ割合は男女とも約1割でした。昇給の提示が「辞めようと思った理由に対する解決策ではない」と受け止められるのは自然な結果です。年齢階級別に「給料等収入が少なかった」を見ると、女性19歳以下の17.1%を除けば、男性20〜24歳13.8%、男性30〜34歳と女性25〜29歳の各13.4%、男性25〜29歳13.1%と20代から30代前半に集まります。それでも7人に1人程度です。給与は不満を生む「衛生要因」で、満たしても意欲は上がりにくいという整理はハーズバーグの二要因理論とは?動機づけ要因・衛生要因16項目と原典の数字、批判までで原典の数字とともに解説しています。自分の退職理由が提示と噛み合っているかを先に確かめてください。
転職後の賃金変動の実績と年齢差
残る側の判断材料として、辞めた場合の実績も見ておきます。同じ調査で2025年の転職入職者の賃金変動を見ると、前職と比べ「増加」が40.8%、「変わらない」が25.5%、「減少」が31.0%です。1割以上の増加は28.2%、1割以上の減少は21.9%で、増加が減少を9.8ポイント上回っています。雇用期間の定めのない一般労働者どうしの移動に限れば、その差は15.5ポイントです。
| 年齢階級(2025年) | 賃金が増加 | 賃金が減少 |
|---|---|---|
| 20〜24歳 | 55.2% | 17.5% |
| 25〜29歳 | 49.8% | 23.9% |
| 30〜34歳 | 48.6% | 29.0% |
| 35〜39歳 | 43.5% | 23.9% |
| 40〜44歳 | 44.9% | 27.4% |
| 45〜49歳 | 41.1% | 30.1% |
| 50〜54歳 | 29.4% | 42.0% |
| 55〜59歳 | 25.5% | 38.9% |
| 60〜64歳 | 21.1% | 54.3% |
令和7年の表で目を引くのは50〜54歳です。前年(令和6年)は増加39.0%・減少28.2%で増加が10.8ポイント上回っていましたが、令和7年は減少が12.6ポイント上回りました。1年分の集計ですが、50代前半で転職による増収を前提にしにくくなっていることは読み取れます。50歳以降も、提示された給与額と転職先の給与額を比較したうえで、勤務地、役割、定年後の処遇を合わせて判断してください。なお1割以上増えた人の割合28.2%は全年齢の転職入職者に占める構成比で、昇給率ではありません。残留の提示条件は、転職先の確定した給与条件と同じ基準(年収・適用開始月・賞与の扱い)で比べてください。
判断の前に固める法的な足場
退職の意思表示の撤回可能時点
撤回できるかどうかは、何を伝えたかで変わります。「辞めます」と一方的に通告する辞職は民法627条1項の解約の申入れにあたり、同項は「当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる」「この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する」と定めています。会社の承諾を必要としない単独の意思表示なので、相手に到達した後は原則として撤回できません。
一方、「退職させてください」と願い出る退職願は、会社との合意で契約を終了させる申込みと解されます。裁判例は、この申込みは会社の承諾の意思表示が労働者に到達して雇用契約終了の効果が発生するまでは、使用者に不測の損害を与えるなど信義に反すると認められるような特段の事情がない限り撤回できるとし、合意解約の申込みから約2時間後の撤回を有効と認めました(白頭学院事件・大阪地判平成9年8月29日)。承諾があった後は撤回できません。最高裁は、人事部長に退職承認の決定権があるならば、人事部長が退職願を受理した時点で合意解約の申込みに対する即時承諾があったことになり、以後の撤回は認められないと判断しています(大隈鐵工所事件・最高裁第三小法廷昭和62年9月18日判決、労働判例504号6頁)。
実務上の結論はひとつ。残る可能性を少しでも残すなら、退職届や退職願を出す前に条件の話をしてください。提出後に「やはり残ります」が通るかは、受け取った相手に決定権があったかという、あなたが確認しにくい事情に左右されます。
昇給の約束を残す方法と、法の限界
ここは誤解が多いところです。労働基準法15条1項は労働条件の明示を義務づけていますが、条文は「使用者は、労働契約の締結に際し」と限定しており、在職中の昇給には及びません。さらに同法施行規則5条3項は、書面で明示すべき事項を「第一項第一号から第四号までに掲げる事項(昇給に関する事項を除く。)」と定め、昇給を明文で除外しています。引き止め時の昇給に労働基準法15条の書面交付義務がそのまま及ぶわけではありませんが、労働契約法4条2項は、労使が契約内容をできる限り書面で確認するものと定めています。
手がかりは二つあります。ひとつは労働契約法8条で、「労働者及び使用者は、その合意により、労働契約の内容である労働条件を変更することができる」と定めています。口頭の合意でも変更自体は成立し得ますが、録音やメールなどの裏付けがなければ、争いになったときに内容の立証が難しくなります。もうひとつは労働基準法89条2号で、常時10人以上の労働者を使用する使用者は「賃金の決定、計算及び支払の方法、賃金の締切り及び支払の時期並びに昇給に関する事項」を就業規則に定めて届け出なければならないとしています。提示された処遇が就業規則や賃金表のどこに位置づくのかを尋ねるのは、この条文に沿った質問です。
辞令や賃金改定通知書が出ないなら、面談の要点をメールで送り、相手の返信を残してください(確認すべき項目は後の手順に挙げます)。なお労働契約法9条は「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない」と定めますが、同条には「ただし、次条の場合は、この限りでない」というただし書があります。10条により、変更後の就業規則を周知させ、かつ変更が不利益の程度・必要性・内容の相当性・労働組合等との交渉状況などに照らして合理的であれば、合意がなくても変更後の就業規則が労働条件になります。いったん上がった賃金は絶対に下がらない、とは言えません。
内定承諾後の残留に伴う辞退手続きと法的留意点
転職先の内定を承諾してから引き止めに応じると、残留は内定辞退とセットになります。最高裁は、大学卒業予定者の採用内定について、就労の始期を卒業直後とする解約権留保付労働契約が成立したと認めました(大日本印刷事件・最高裁第二小法廷昭和54年7月20日判決)。同判決は、内定の法的性質は当該企業・当該年度の事実関係に即して判断すると述べており、すべての内定が同じ扱いになるわけではありませんが、内定承諾で労働契約が成立していれば、辞退は労働者側からの解約の申入れになります。京都新卒応援ハローワークも、内定承諾書を提出した後でも「民法第627条に準じて2週間以上前に解約(内定辞退)の申し入れをすることは、法的に問題はないと考えられます」と案内しています。
法的に辞退できることと、損害が生じないことは別です。入社日直前の辞退で転職先が受け入れ準備の費用を負っていれば、信義に反する態様だったとして賠償を求められる余地は残ります。残留に傾いた時点で、条件が書面で確定する前でも転職先へ状況を伝え、回答期限をすり合わせてください。条件が確定しないまま内定を辞退し、その後に提示が撤回されるのが最も避けたい順番です。
強引な引き止め・退職届の受理拒否への対処
引き止めが条件提示ではなく圧力に変わることもあります。前述のコンサルタント調査では20%が「不当な引きとめ(ハラスメント)に遭遇したことがある」と答え、その内容は「上司や上位役職者による恫喝」47%、「退職届の受理拒否や必要書類の発行遅延」と「退職時期を度々延期させられる」が同率44%でした。
厚生労働省「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」(2026年7月7日公表)でも、民事上の個別労働関係紛争の相談のうち「自己都合退職」は38,386件で、「いじめ・嫌がらせ」55,614件に次ぐ2番目でした。同資料の事例には、会社の規程どおり1か月前に退職届を出したのに上司が希望日の退職を認めず、労働局が民法627条1項を事業主に説明する助言をして、希望日に退職できたケースが載っています。
受理拒否には条文で対処できます。民法97条1項は「意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる」と定め、同条2項は相手方が正当な理由なく通知の到達を妨げたときは「通常到達すべきであった時に到達したものとみなす」としています。辞職は会社の承諾を要しないので、上司が退職届を受け取らない場合は、人事部門宛てのメールや配達証明付き内容証明郵便などで通知内容と到達日を記録してください。起算点は、実際の到達日または民法97条2項によって到達したとみなされる時点で判断します。離職票とは別に、退職時に使用期間や退職事由などの証明を求める退職証明書については、労働基準法22条1項が、労働者が請求した場合に使用者は「遅滞なくこれを交付しなければならない」と定めています。
金銭で縛る言い方にも線があります。労働基準法16条は「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」と定めており、退職に対する違約金や損害賠償額をあらかじめ定める取り決めは禁止されています。研修費の返還条項についても、労働契約の不履行に対する違約金・賠償予定に当たるかを確認する必要があります。実際に生じた損害の賠償請求まで一切できなくなるわけではありませんが、退職を止めるための金額提示に根拠はありません。同法5条は暴行・脅迫などで労働者の意思に反して労働を強制することを禁じています。
有期契約は扱いが異なります。民法628条により、やむを得ない事由があれば期間の途中でも直ちに契約を解除できるものの、その事由が一方の過失で生じたときは損害賠償の責任を負います。加えて労働基準法137条は、期間の定めのある労働契約(一定の事業の完了に必要な期間を定めるものを除き、期間が1年を超えるものに限る)を結んだ労働者について、契約期間の初日から1年を経過した日以後は使用者に申し出ることでいつでも退職できると定めています。ただし高度の専門的知識等を有する労働者と満60歳以上の労働者(同法14条1項各号)はこの対象から外れます。話がこじれた場合の相談先は、都道府県労働局と労働基準監督署等に置かれている総合労働相談コーナー(全国378か所)で、前述の助言・指導もここが窓口です。
提示を受けてから返答するまでの進め方
- その場で受けも断りもせず、検討する意思と回答期限を伝える。転職先の入社日から逆算し、いつまでに返事をするかを自分から示す。
- 提示を数値に落とす。適用開始月、改定後の基本給額、等級・役職の変更、賞与算定への反映、翌年度の改定での扱いを質問する。
- 書面を受け取る。辞令や賃金改定通知書が出ないなら、面談内容をメールで送って相手の返信を残す。
- 自分が辞める理由と照合する。金銭以外が主因なら、その項目(労働時間、業務内容、人間関係、異動)に具体的な手当てがあるかを見る。
- 断る場合は、条件の不足を理由にしない。金額を理由にすると再提示の応酬になり、退職日だけが後ろにずれる。
逆の使い方、つまり退職を交渉カードにして昇給を引き出す進め方は勧めません。引き出した昇給が翌年以降の改定の前倒しなら、将来の改定額が減る可能性があります。また前節のとおり退職願を提出した時点で撤回が効かなくなる場合があり、引き出すつもりが退職の成立まで進んでしまうこともあります。
判断の場面では、「ここまで積み上げた年数がもったいない」という感覚と、「一度辞めると言った以上は貫くべきだ」という感覚が同時に働きます。前者は戻らないコストを判断に持ち込む偏りで、サンクコスト(埋没費用)とは?意味・具体例とコンコルド効果との違い・撤退判断で扱う撤退判断の話です。後者は一貫性の原理とは?コミットメントとの関係と原典実験の数値・効かない人の条件で説明する、表明した立場を維持しようとする心理。どちらも条件の中身と無関係に結論を引っ張ります。切り出す時期を迷っている段階なら、年明けに退職の申し出が集中する背景を扱ったあけおめ退職とは?経験率28.4%の調査データと年始の離職の実像も参考になります。
よくある質問
引き止めに応じて残った人は後悔していますか?
後悔の有無を直接尋ねた調査は見当たりませんが、在籍期間なら分かります。ロバート・ウォルターズ・ジャパン「給与調査2024」では、受諾後5年以上勤務した会社員が14%いる一方、半年以内の退職が38%、半年後から1年以内が21%で、1年以上残るほうが少数派です。分かれ目は、辞めようとした理由が提示された条件で実際に解消されたかどうか。残留を選ぶ場合は、次回の評価時期と処遇を見直す条件も確認し、今回の昇給だけで不満が解消するかを判断してください。
退職届を出した後でも撤回できますか?
退職願(合意解約の申込み)なら、会社の承諾が届く前で、信義に反する特段の事情がなければ撤回できます(白頭学院事件)。決定権のある人事部長が受理した後は撤回できません(大隈鐵工所事件)。「辞めます」と一方的に通告した辞職は、会社に到達した後は原則として撤回できません。
いくら上がるなら検討する価値がありますか?
目安は自社の通常の賃金改定を超えているかです。2025年の1人平均賃金の改定額は13,601円・改定率4.4%(労働組合なしの企業は11,980円・4.0%)。この平均値だけで提示額の妥当性は判断できません。自社の通常改定分に上乗せされるのか、翌年の改定を前倒しするのかを確認します。
退職の引き止めはハラスメントになりますか?
条件を示して残留を打診すること自体は違法ではありません。問題になるのは、恫喝や退職届の受け取り拒否、退職時期の引き延ばしで退職そのものを妨げる場合です。暴行・脅迫などで意思に反して働かせることは労働基準法5条が禁じ、会社が正当な理由なく通知の到達を妨げた場合には、通常到達すべきだった時に到達したものとみなされます(民法97条2項)。エン・ジャパンのコンサルタント調査では、20%が不当な引き止めに遭遇したことがあると答えています。録音やメールで経緯を残し、総合労働相談コーナーに相談してください。
引き止めを断ると、退職日までの職場が気まずくなりませんか?
気まずさを最小にするには、断る理由を条件の不足に置かないことです。金額や役職を理由にすると上乗せの再提示につながり、やり取りが続きます。退職の意思と引き継ぎの予定を伝えて断ってください。例えば「退職の意思は変わりません。担当案件の一覧と引き継ぎ資料を作成し、退職日までの対応を相談させてください」と伝えます。