アンゾフの成長マトリクスは、製品と市場をそれぞれ既存・新規で分け、成長の方向を4つに整理するフレームワークです。検索上位の日本語解説は5本とも製品と市場を既存・新規に分けた4象限として説明しますが、初出であるイゴール・アンゾフの1957年の論文を全文照合すると、マトリクスという語も成長ベクトルという語も一度も出てきません。本記事では4戦略の中身と使い分け、実務での手順を整理したうえで、原典の実測にもとづいて定番解説とどこが食い違うのかまでを示します。
まとめ:アンゾフの成長マトリクスの要点
- 製品(既存・新規)と市場(既存・新規)の組み合わせで、市場浸透・市場開拓・製品開発・多角化の4戦略を整理する枠組みです。
- 初出は Ansoff, H. I.「Strategies for Diversification」Harvard Business Review(1957年、pp.113-124)です。
- その原典に matrix という語は1度も出てきません。図の名称は EXHIBIT I「PRODUCT-MARKET STRATEGIES FOR BUSINESS GROWTH ALTERNATIVES」です。
- 原典の図は2行2列ではなく、製品ラインと市場を何段階にも並べた格子です。既存×既存にあたるのは左上の1マスだけです。
- 原典は4つから1つを選べとは書いていません。市場浸透・市場開拓・製品開発を同時に進めているのは、よく経営された会社の印だと述べています。
- 多角化だけが他の3つと性質が違います。新しいスキル・技術・設備を必要とし、過去の事業経験との断絶を伴うためです。
アンゾフの成長マトリクスの定義と4つの成長戦略
以下の表の象限位置は、縦軸に製品、横軸に市場を取り、上・左を既存、下・右を新規とした配置に対応しています。どの象限を選ぶかで、必要になる資源とリスクの大きさが変わります。
| 象限 | 製品 | 市場 | 戦略名 | 原典の呼称 |
|---|---|---|---|---|
| 左上 | 既存 | 既存 | 市場浸透戦略 | Market penetration |
| 右上 | 既存 | 新規 | 市場開拓戦略 | Market development |
| 左下 | 新規 | 既存 | 製品開発戦略 | Product development |
| 右下 | 新規 | 新規 | 多角化戦略 | Diversification |
市場浸透・市場開拓・製品開発・多角化の定義
市場浸透戦略は、原典では「an effort to increase company sales without departing from an original product-market strategy」と定義されています。いまの製品と市場の組み合わせを変えずに売上を増やす動きで、既存顧客の購入量を増やすか、同じ製品の新しい買い手を見つけるかの2通りが挙げられています。到達点の測り方はマーケットシェアの計算方法の側で整理しています。
市場開拓戦略は、いまの製品ラインを多少手直ししたうえで新しい用途・新しい買い手に当てる動きです。原典の例は、旅客輸送用の機体を貨物輸送用に転用して売る航空機メーカーでした。どの層を新しい相手にするかの切り方はセグメンテーション分析の4つの軸が、参入先で待ち受ける壁は参入障壁の種類が扱います。
製品開発戦略は、原典の言葉では「retains the present mission and develops products that have new and different characteristics」です。果たすべき役割は変えないまま、それをより良く果たす別の製品を出します。着手の時期を判断するにはプロダクトライフサイクルの考え方が併用されます。
多角化戦略は「a simultaneous departure from the present product line and the present market structure」、つまり製品ラインと市場構造の両方から同時に離れることです。事業の束ね方まで踏み込む話はコングロマリット(複合企業)の意味と具体例で扱っています。
アンゾフが市場を顧客ではなくミッションで定義した理由
原典は市場を「顧客」で切っていません。使っているのはミッション(使命)という語で、「A product mission is a description of the job which the product is intended to perform」、つまり製品が果たすことを期待されている仕事だと説明されています。顧客で切らなかった理由も書かれており、1人の顧客が複数の異なる仕事を抱えていて、それぞれに違う製品が要るからだとされています。
この定義の取り方には実務上の効き目があります。顧客名簿で市場を数えると新市場は「まだ取引のない会社」になりますが、仕事で数えると「既存顧客が抱えている、まだ自社製品が当たっていない仕事」も新市場に入ります。先ほどの旅客機を貨物用に転用する例が市場開拓に分類されるのは、この数え方によるものです。
1957年の原典と定番解説が食い違う3点
「アンゾフの成長マトリクス」で上位に出る日本語ページ5本(中小企業庁ミラサポplus、M&Aキャピタルパートナーズ、GLOBIS学び放題×知見録、ferret One、レコフ)を2026年9月22日に取得して本文を照合したところ、既存・新規の2区分は5本すべてが説明していた一方、1957年・1965年・成長ベクトル・ミッション・ハーバードのいずれの語も、5本中0本でした(各ページをブラウザ相当のUAで取得し、scriptとstyleを除いた本文に対して語を数えています)。以下の実測は、archive.org で公開されている原典PDF(全12ページ、pp.113-124)を全文抽出して数えた結果です。EXHIBIT I は p.114、多角化の3類型は p.118 にあります。
1957年原典での「マトリクス」「成長ベクトル」の使用状況
1957年の論文12ページを全文抽出して語数を数えると、matrix は0回、growth vector も0回でした。synergy(シナジー)も0回です。原典が使っている呼び名は「four different types of product-market strategy」で、図の見出しは EXHIBIT I「PRODUCT-MARKET STRATEGIES FOR BUSINESS GROWTH ALTERNATIVES」です。
この論文には、現在アンゾフのマトリクスと呼ばれる枠組みの骨格がすでに示されています。食い違うのは枠組みの起源ではなく名称のほうで、ここで確認できるのは「1957年の論文にこれらの語が見当たらない」という事実に限られます。それぞれの名称がいつ定着したかは、別の資料で確認する必要があります。
原典の図は2行2列ではなく、既存×既存が1マスだけの格子
EXHIBIT I を画像として確認すると、行は PRODUCT LINE として π0, π1, π2 … πn、列は MARKETS として μ0, μ1, μ2 … μm が並ぶ格子で、2行2列ではありません。π0 と μ0 が現在の製品ラインと現在のミッションを指し、区画は次のように割り当てられています。
| 原典の区画 | 占める範囲 | 戦略 |
|---|---|---|
| π0 かつ μ0 | 1マスのみ | Market penetration |
| π0 かつ μ1以降 | 行方向に無制限 | Market development |
| π1以降 かつ μ0 | 列方向に無制限 | Product development |
| π1以降 かつ μ1以降 | 残りすべて | Diversification |
4象限の図では4つの選択肢が同じ面積に見えますが、原典の格子では現状維持にあたる区画は1マスしかなく、残りはいずれも開いています。新市場も新製品も本来は「1つの新しい枠」ではなく無数の候補の集合だ、という読み方ができる形です。
多角化の分類は「水平・垂直・集中・集成」ではなく3つ
日本語の解説では多角化を水平型・垂直型・集中型・集成型の4類型に分けるものが多く、中小企業庁のミラサポplusも「アンゾフは以下の4つのパターンに分類しています」としてこの4つを挙げています。ただし1957年の論文に限れば、concentric(集中型・同心円的)も conglomerate(集成型)も出現回数は0回です。
原典は「Generally speaking, there are three types of opportunities」と書き、垂直多角化(vertical)、水平多角化(horizontal)、ラテラル多角化(lateral)の3つを挙げています。3つ目のラテラル多角化は、自社が属する業界の外に出る動きとされ、バナナ運搬船の運航から原子炉の建設まであり得ると表現されています。4類型を使うのは実務上かまいませんが、その出典として1957年の論文を挙げることはできません。
4つの戦略の使い分け:必要な資源とリスク
4象限のどれを取るかは好みではなく、手持ちの資源で届く範囲がどこまでかで決まります。原典が資源の観点から線を引いているのは、多角化とそれ以外の間です。以下のリスクの低・中・高は一般的な目安であり、原典が示した数値評価ではありません。実際には投資額、需要、競争条件によって変わります。
| 戦略 | 使う資源 | リスク | 代表的な打ち手 |
|---|---|---|---|
| 市場浸透 | 既存の技術・販路 | 低 | 価格、販促、購入頻度の引き上げ |
| 市場開拓 | 既存の技術+新しい販路 | 中 | 地域拡大、新セグメント、用途転換 |
| 製品開発 | 既存の販路+新しい技術 | 中 | 改良、ラインアップ追加、機能追加 |
| 多角化 | 新しいスキル・技術・設備 | 高 | M&A、新規事業、異業種参入 |
多角化と他の3戦略における必要資源の違い
原典は「The diversification strategy stands apart from the other three.」と明言しています。理由も具体的で、他の3つは元の製品ラインに使っているのと同じ技術・財務・販売の資源でやれるのに対し、多角化は「new skills, new techniques, and new facilities」を必要とし、その結果として組織と設備の変更を招き、過去の事業経験との明確な断絶になる、という説明です。
「多角化はハイリスク・ハイリターン」という要約より、このリスクの中身のほうが実務では使えます。判断では、新しいスキル・技術・設備を調達できるか、組織を変更できるかに加え、投資に見合う収益が期待できるかも評価します。垂直方向の多角化を検討するなら、どの工程を自社に取り込むかの議論になるため、バリューチェーン分析の9分類と合わせて見ると境界がはっきりします。
原典における複数戦略の同時追求への評価
4象限の図は、どれか1つを選ぶ道具のように見えます。しかし原典はその逆を書いています。現実の場面では企業はこれらの道を同時にいくつも進むのが普通だと述べたうえで、「a simultaneous pursuit of market penetration, market development, and product development is usually a sign of a progressive, well-run business」と続けます。市場浸透・市場開拓・製品開発を同時に追いかけていることは、進歩的でよく経営されている会社の印であり、競争のなかで生き残るために欠かせないこともある、という立場です。
この文は多角化を同時追求の列に含めていない点でも読み取る値打ちがあります。前の3つの同時追求は肯定的に評価されていますが、全社に並走を義務づけているわけではありません。多角化は必要資源の違いを踏まえて検討する位置づけです。
アンゾフの成長マトリクスの使い方4ステップ
実際にワークシートとして使うときは、次の順で埋めると議論が空中戦になりません。
- π0 と μ0 を先に確定する。現在の製品ラインと、その製品がいま果たしている仕事を書き出します。ここが曖昧なまま象限を埋めると、全部が新規に見えてしまいます。
- 仕事の単位で市場を数え直す。顧客名ではなく、製品が果たすべき仕事で列を作ります。既存顧客の中にある未対応の仕事が、ここで新市場として立ち上がります。
- 各マスに候補施策と必要資源を書く。「海外展開」という施策名だけで止めず、「現地販路の構築」「多言語サポート要員」のように、その施策に足りない資源まで対にして書きます。多角化に分類した案では、新たに必要となるスキル・技術・設備を整理し、既存事業の経験で対応できない範囲を確認します。
- 同時に走らせる組み合わせを決める。市場浸透・市場開拓・製品開発は同時追求も候補に入れ、需要と必要資源を比較して実行する戦略を決めます。多角化では、新たに必要となる能力や投資も評価します。
この枠組みは成長の方向を選ぶための道具で、いまの事業の資源配分を決める道具ではありません。両者を混同すると議論が噛み合わなくなるため、他の枠組みとの役割分担はマーケティングフレームワークの使い分けと使う順番で確認してください。
市場開拓と多角化の事例:航空機・フォード・富士フイルム
ここでは原典に登場する2つの例を取り上げます。垂直多角化の代表例として挙げられているのは、ヘンリー・フォード・シニアの時代のフォードで、部品・素材の生産まで自社で抱え込んだ形が該当します。市場開拓は、旅客輸送用の機体を貨物輸送という別の仕事に当てて売る航空機メーカーの例で説明されています(社名は明記されていません)。どちらも1957年時点の記述であり、現在の各社の姿を説明するものではありません。
日本企業で多角化の到達点が数字で追えるのは富士フイルムホールディングスです。同社の2027年3月期第1四半期決算短信(2026年8月6日)によると、連結売上高8,265億円の内訳はヘルスケア2,568億円、ビジネスイノベーション2,732億円、エレクトロニクス1,277億円、イメージング1,688億円でした。同短信はイメージング部門の内容を「インスタントフォトシステム、カラーフィルム、写真プリント用カラーペーパー・サービス・機器、デジタルカメラ、光学デバイス等」と記載しており、創業以来の写真関連はこの部門に収まっています。売上高構成比はイメージングが20.4%、ヘルスケアが31.1%です。
同じ日に同社は「ビジネスイノベーション事業の持続的成長に向けたパーシャル・スピンオフを含む戦略的選択肢の検討開始に関するお知らせ」を開示しています。多角化は到達して終わりではなく、広げた事業を切り出す判断まで含めて続く、という点が実データから読み取れます。
PPM・SWOT・STPとの違いと使い分け
4象限の図という見た目が似ているため、PPM分析と混同されることがあります。PPMは市場成長率と相対的市場シェアで既存事業を並べ、どこに資金を配るかを決める道具で、扱うのは今ある事業です。アンゾフの成長マトリクスが扱うのはこれから進む方向で、対象がそもそも違います。
環境分析の枠組みとも役割が分かれます。SWOT分析は自社の強み・弱みと外部の機会・脅威を洗い出す段階、STP分析は狙う層と立ち位置を決める段階を受け持ちます。順序としては、SWOTなどで現状を把握し、アンゾフの成長マトリクスで方向を決め、STPで具体的な当て先を決める流れが噛み合います。
よくある質問
アンゾフの成長マトリクスとは何ですか?
製品(既存・新規)と市場(既存・新規)の組み合わせで成長の方向を4つに整理するフレームワークです。市場浸透戦略、市場開拓戦略、製品開発戦略、多角化戦略の4つが置かれます。初出は1957年のハーバード・ビジネス・レビュー掲載論文「Strategies for Diversification」です。
アンゾフの成長マトリクスと成長ベクトルは同じものですか?
日本語の解説では同義として扱われることが多い語ですが、1957年の原典に growth vector という語は1度も出てきません(全文カウント0回)。原典で使われているのは product-market strategy という表現です。1957年の論文は4戦略の説明の出典になりますが、「成長ベクトル」という名称の使用例にはなりません。
4つの戦略のうち、どれを選べばよいですか?
原典は1つを選べとは書いていません。市場浸透・市場開拓・製品開発を同時に進めていることは、よく経営された会社の印であり、競争のなかで生き残るために欠かせないこともある、と述べられています。多角化だけは新しいスキル・技術・設備を要するため、別枠の意思決定として切り出すのが原典の構成に沿った使い方です。
多角化戦略の種類はいくつありますか?
日本語の解説では水平型・垂直型・集中型・集成型の4類型が一般的です。ただし1957年の原典が挙げているのは垂直・水平・ラテラルの3つで、集中型にあたる concentric と集成型にあたる conglomerate はいずれも原典に出現しません。4類型を使う場合は、出典として1957年の論文を挙げないようにしてください。
PPM分析との違いは何ですか?
PPM分析は市場成長率と相対的市場シェアの2軸で既存事業を並べ、資金配分を決めるための枠組みです。対してアンゾフの成長マトリクスは、これから進む成長の方向を決めるための枠組みです。どちらも4象限の図を使いますが、軸も対象も異なります。
「アンゾフが提唱する成長マトリクスを説明したものはどれか」という設問にはどう答えますか?
資格試験で問われるのは実務上の定義、すなわち製品と市場をそれぞれ既存・新規に分けた4象限で成長戦略を整理するもの、という説明です。本記事で示した原典との食い違いは背景知識であり、試験の解答としては一般的な定義を選んでください。