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title: "コミンテルンとは？簡単に言うと何か、目的・解散理由とコミンフォルムとの違い"
url: "https://www.issoh.co.jp/column/details/10438/"
published: 2025-12-28
updated: 2026-10-17
categories: ["ビジネス理論・用語"]
publisher: "株式会社一創"
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# コミンテルンとは？簡単に言うと何か、目的・解散理由とコミンフォルムとの違い

コミンテルン（共産主義インターナショナル）とは、1919年3月にモスクワで結成され、1943年に解散した各国共産党の国際組織です。加盟した党は独立した友党ではなく「支部」と呼ばれ、モスクワの決定に従う義務を負いました。この記事では、まず要点を3文でまとめ、そのあと加入条件21カ条の条文、7回の大会でたどる路線転換、解散決議の原文、日本共産党との関係、コミンフォルム・コメコンとの違いを、条文や決議そのものにリンクしながら確認します。

## まとめ：コミンテルンの目的・組織・解散の要点

3文で言うと次のとおりです。

- ロシア革命を起こしたボリシェヴィキ（ロシア共産党）が、世界の共産党を一つの指揮系統に束ねるために作った組織です。
- 目的は世界革命でしたが、1924年にレーニンが死去してからは、各国の党がソ連の外交を支える性格を強めていきます。
- 第二次世界大戦さなかの1943年、連合国との協力を優先する判断から、大会を開かずに解散しました。

| 項目        | 内容                                 |
| --------- | ---------------------------------- |
| 正式名称      | 共産主義インターナショナル                      |
| 別の呼び名     | 第三インターナショナル、国際共産党                  |
| 英語表記      | Comintern（Communist International） |
| 設立        | 1919年3月・モスクワ（創立決議は3月4日）            |
| 加入条件      | 21カ条（1920年8月6日・第2回大会）              |
| 大会        | 全7回（1919年〜1935年）                   |
| 初代執行委員会議長 | グリゴリー・ジノヴィエフ                       |
| 最後の指導者    | ゲオルギ・ディミトロフ（執行委員会書記長）              |
| 日本支部      | 日本共産党（1922年・第4回大会で承認）              |
| 解散        | 1943年5月15日決議・5月22日公表               |
| 後継とされる組織  | コミンフォルム（1947年〜1956年）               |

評価の軸も先に示しておきます。コミンテルンは各国共産党の連絡会ではなく、支部を上から拘束する中央集権組織でした。その拘束を制度にしたのが1920年の21カ条で、ソビエト共和国の防衛はこの時点で加入条件に書き込まれています。1943年の解散は運動の勝利でも敗北でもなく、戦時外交上の判断として読むのが最も史料に沿います。

## コミンテルンとは何か：1919年3月にモスクワで発足した各国共産党の国際組織

コミンテルンの性格は、ソ連の国家機関と並走した点に表れます。ソ連政府は資本主義国と正式な外交関係を結び、コミンテルンは同じ国々で革命運動を支援する。看板は二枚でしたが、指導部の顔ぶれは重なっていました。国家としての外交と、国境を越えた革命の推進を同時に動かす二重構造が、この組織を理解する出発点です。

### 正式名称・第三インターナショナル・コミンテルン：呼び名の使い分け

正式名称は「共産主義インターナショナル」です。第三インターナショナルは、1864年の第一インターナショナル、1889年の第二インターナショナルに続く3番目という系譜上の呼び名にあたります。コミンテルンはロシア語の Kommunisticheskii internatsional を縮めた略称で、英語では Comintern と書きます。日本共産党の機関紙しんぶん赤旗は「共産主義インタナショナル」と長音を省いた表記を使っており、古い文献に出てくる「第三インタナショナル」「国際共産党」も同じ組織です。

### 創立大会（1919年3月）：反戦派の会議から押し切られた発足

源流は1915年9月、スイスのツィンメルヴァルトで開かれた国際会議にあります。第一次世界大戦に反対する社会主義者の集まりでしたが、平和主義の右派と革命を説く左派に割れ、左派の中心だったボリシェヴィキは、戦争を支持した党と絶縁して新しいインターナショナルを作るべきだと主張しました。

設立を急がせたのは組織間の競争です。1918年12月にイギリス労働党が第二インターナショナルの再建会議を呼びかけると、レーニンは外務人民委員チチェーリンに第三インターナショナル設立の準備を命じました。1919年1月に39の党やグループへ招請状が出され、3月2日にモスクワで会議が開会、3月4日に創立が決議されます。

集まった顔ぶれは、世界の代表と呼べるものではありませんでした。干渉戦争のさなかで国外からモスクワに入ること自体が難しく、代議員の数は資料により52名から54名まで割れます。ドイツ共産党代表のフーゴ・エーバーラインは、組織を正式に代表している代議員はわずかだとして即時創立に反対しましたが、採決では棄権し、決議は成立しました。佐々木太郎『コミンテルン』（中公新書、2025年）の「はじめに」は、この会合を「19ヵ国の共産党組織などの代表者ら五十余名」と描いています。

執行委員会の初代議長にはジノヴィエフ、書記にはカール・ラデックが就きました。国外の委員がモスクワに来られない以上、日常の実務はロシアの党が担うほかありません。中央集権は理念として選ばれただけでなく、この物理的な条件からも始まっています。

### 第一・第二インターナショナルとの違い：加盟組織を縛る力

| 名称          | 存続                    | 加盟組織への拘束                |
| ----------- | --------------------- | ----------------------- |
| 第一インターナショナル | 1864年9月28日〜1876年7月15日 | 総評議会による加盟承認・支部の資格停止権限あり |
| 第二インターナショナル | 1889年7月14日〜1914年に分裂   | 大会決議はあるが各党は自律           |
| 第三インターナショナル | 1919年3月〜1943年         | 支部として決定に服する義務           |

第二インターナショナルが崩れた経緯が、第三の設計を決めました。1914年8月、ドイツ社会民主党の国会議員団は「われわれは危機の瞬間にあって祖国を見捨てるようなことはしない」と声明して軍事公債に賛成し、フランスでも同月に社会党のジュール・ゲードらが挙国一致内閣に入閣します。イギリス労働党のアーサー・ヘンダーソンの入閣は1915年5月です。国際主義を掲げた党が、開戦と同時にそれぞれの「祖国防衛」に回った。レーニンはこの崩壊を改良主義の帰結とみなし、改良派との絶縁を新組織の前提に置きました。

## コミンテルンの目的と21カ条：社会民主主義との絶縁を制度にした加入条件

コミンテルンの目的は、資本家階級の支配を倒して世界規模で革命を実現することでした。労働者が生み出した新たな価値のうち、労働力の価値を超える剰余価値を資本家が取得する、というマルクス経済学の[「搾取」の定義](/column/details/10233/)が、その理論上の前提です。ただし目的の一言だけでは、この組織が各国の政治に何をもたらしたかは見えません。目的を制度に落としたのが加入条件21カ条です。

### 21カ条の加入条件（1920年8月6日採択）の条文

21カ条は1920年7月から8月の第2回大会で、8月6日に採択されました。1919年の創立大会での採択と書く資料がありますが、誤りです。[「共産主義インタナショナルへの加入条件」の日本語訳全文](https://undou.net/blog/2023/conditions-for-joining-communist-international/)は、ドイツ文の第2回大会議事録（1921年刊）を参照しつつ『レーニン全集』所収のロシア文から訳されています。主な条項は次のとおりです。

| 条    | 要求内容                              |
| ---- | --------------------------------- |
| 第1条  | 宣伝・扇動を真に共産主義的な性格にする               |
| 第2条  | 改良主義者・中央派を計画的に排除する                |
| 第3条  | 内乱に備え非合法機構を並行して置く                 |
| 第4条  | 軍隊内での系統的な宣伝を義務づける                 |
| 第7条  | 改良主義との完全絶縁を短期間で実行する               |
| 第12条 | 民主主義的中央集権制と鉄の規律を敷く                |
| 第13条 | 合法活動国の党に定期的な党員再登録・粛清を求める          |
| 第14条 | ソビエト共和国を献身的に支持する                  |
| 第15条 | 旧綱領を再検討し新綱領を作成する                  |
| 第16条 | 大会・執行委員会の決定が各党を拘束する               |
| 第17条 | 党名を「〇〇国共産党（第三共産主義インタナショナル支部）」に改める |
| 第18条 | 執行委員会の重要文書を機関紙誌に載せる               |
| 第19条 | 第2回大会後4か月以内に臨時大会を開く               |
| 第20条 | 戦術未転換の加入希望党に中央機関の構成要件を課す（例外あり）    |
| 第21条 | 条件を拒否する党員を除名する                    |

第17条は党名の変更を求めます。第20条は、戦術を根本的に変更していない加入希望党に、中央委員会と主要中央機関の3分の2以上を第2回大会以前から加入を公然と支持した人物で構成するよう求めますが、執行委員会が認める例外もあります。第12条は党内に「軍事的規律に近い鉄の規律」を求め、第16条と第21条の除名条項が重なることで、加入は連携ではなく編入に近い意味を持ちました。第14条はソビエト共和国の支持を加盟の条件そのものにしています。各国共産党の任務が後年ソ連の国益擁護へ傾く制度上の土台は、1920年の時点で置かれていたことになります。

ただし条文は拘束一辺倒ではありません。第16条の後半は、各党が活動する条件が「きわめて多種多様」であることを考慮し、全体を拘束する決定は「そういう決定が可能な問題だけにかぎらなければならない」と自ら限定しています。限定句を落として「すべてをモスクワが決めた」と書くのは条文の読み過ぎで、実際に拘束がどこまで及んだかは、次に見る大会ごとの方針転換で確かめる必要があります。

### 21カ条が生んだ社会主義政党の分裂と「左翼」小児病批判

厳しい条件は狙いどおりの結果を生みました。ドイツでは1920年10月に独立社会民主党が分裂し、その左派とドイツ共産党が合同して同年12月に統一ドイツ共産党が生まれます。フランスでは1920年12月のトゥール大会で多数派が加盟を決めて共産党（SFIC）を名乗り、条件を拒んだ少数派が社会党（SFIO）の名称と組織を保って残りました。加盟済みだったイタリア社会党も1921年1月に分裂し、イタリア共産党が設立されます。

21カ条が右側の改良派を締め出す道具だったのに対し、左側の急進派にもレーニンは歯止めをかけています。第2回大会の前、1920年4月に書いた『共産主義における「左翼」小児病』で、議会のボイコットや反動的な労働組合からの脱退を主張する潮流を批判し、そうした場の内側で大衆の支持を得るよう求めました。コミンテルンは左右の両方を切り落として、ボリシェヴィキの型に合う党だけを残そうとしたわけです。その結果、1930年代にファシズムと向き合う時点で、ヨーロッパの労働運動は共産党と社会民主党に深く分断されていました。

## コミンテルンの歴史：7回の大会でたどる1919年から1943年

24年間で開かれた大会は7回です。方針の転換は大会か執行委員会の会合で行われているので、大会を軸に追うと流れがつかめます。

| 大会  | 時期          | 主な決定                  |
| --- | ----------- | --------------------- |
| 第1回 | 1919年3月     | 創立決議、執行委員会の設置         |
| 第2回 | 1920年7〜8月   | 21カ条の加入条件             |
| 第3回 | 1921年6〜7月   | 「攻勢」戦術を否定、多数者の獲得へ     |
| 第4回 | 1922年11〜12月 | 労働者統一戦線、日本共産党を日本支部と承認 |
| 第5回 | 1924年6〜7月   | 各国支部のボリシェヴィキ化         |
| 第6回 | 1928年7〜9月   | 「第三期」論と社会ファシズム論       |
| 第7回 | 1935年7〜8月   | 反ファシズム人民戦線の採択         |

### 武装蜂起の失敗から労働者統一戦線へ（1921〜1923年）

初期のコミンテルンは、ロシア革命をヨーロッパ革命の導火線とみなし、ソビエト政府の財政資金まで使って各国の運動を援助しました。最重点はドイツです。1921年3月の三月行動では、クン・ベーラを長とするチームが送り込まれ、統一ドイツ共産党を武装闘争へ駆り立てましたが、蜂起は大衆の支持を得られないまま粉砕されます。失敗を公然と批判した前議長パウル・レヴィは4月に除名されました。

この挫折を受けて、1921年6月から7月の第3回大会は「攻勢」戦術を否定し、まず労働者階級の多数を獲得する方針に切り替えます。同年12月には、社会民主党の労働者との共同行動を呼びかける「労働者統一戦線」戦術として定式化されました。それでも1923年10月にはドイツで再び蜂起が計画され、直前で中止されたものの、連絡の行き違いで蜂起したハンブルクの戦闘は数日で鎮圧されています。期待したヨーロッパ革命は、ここで事実上の見通しを失いました。

### 世界革命論から一国社会主義へ：レーニンの死が変えた組織の役割

1924年にレーニンが死去すると、スターリンは一国社会主義論を掲げ、ブハーリンが1925年4月のパンフレットでこれを理論化します。争点は革命を広げる順序だけではなく、他国の革命が勝利しない状況で、一国だけで社会主義社会を完成できるかという点にもありました。実務上の帰結ははっきりしていました。各国共産党の主な任務が、自国の革命からソ連の外交の擁護へ移ったのです。ジノヴィエフはスターリンと対立して1926年に解任され、以後は議長職そのものが置かれていません。1935年にディミトロフが執行委員会書記長に選出され、解散まで組織を率いました。

### 中国革命と国共合作：コミンテルンの関与と1927年の合作崩壊

中国では、共産党の組織化や国共合作にコミンテルンが関与しました。1921年7月の中国共産党第1回全国代表大会には、コミンテルンからマーリン（スネーフリート）とニコルスキーが立ち会っています。1923年1月の孫文・ヨッフェ共同宣言のあと、ソ連の政治局は同年8月にミハイル・ボロディンを孫文の政治顧問に任命し、10月に広州へ着任させました。1924年1月20日の国民党第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」が掲げられ、共産党員が個人の資格で国民党に入る党内合作の形で第1次国共合作が成立します。第2回大会でレーニンが示した、植民地の民族革命運動とは一時的に同盟するが融合はせず、プロレタリア運動の独立は保つ、という原則の応用でした。

合作は1927年に破綻します。4月12日、蔣介石の指示を受けた部隊が上海で共産党員と労働組合の弾圧に踏み切り（上海クーデター）、7月の武漢政府の分共で合作は完全に終わりました。この失敗はモスクワで、中国問題をめぐるスターリンとトロツキーの対立を決定的にしています。アジアではインドネシア共産党（1920年5月に共産党へ改組）、中国共産党（1921年7月）、日本共産党（1922年7月）が、創立から数年のうちに相次いで生まれました。日本共産党の「日本支部」という位置づけも、この同時期の組織化の流れの一つです。

### 社会ファシズム論から人民戦線へ：第6回大会と第7回大会の逆転

1928年の第6回大会は、資本主義が最終的な崩壊の段階に入ったとする「第三期」論を採り、社会民主主義を主要な敵として「社会ファシスト」と呼ぶ社会ファシズム論を打ち出しました。ドイツ共産党はこの方針のもと、ナチ党が急伸する局面でも社会民主党との対立に力を割き、それがナチ党の権力掌握を許した一因と評価されています。

方針は1935年の第7回大会で逆転します。ディミトロフの中心報告を軸に、ファシズムに反対するすべての勢力と手を結ぶ人民戦線が公式に承認されました。フランスでは1936年にレオン・ブルムの人民戦線政府が、スペインでも人民戦線政府が成立します。しかしスペインの人民戦線はフランコの反乱に始まる内戦で壊滅し、1939年の独ソ不可侵条約によって人民戦線の方針そのものが放棄されました。7年で敵と味方を入れ替え、4年で再び手放したこの振れ幅は、方針の転換がソ連の外交と連動していたことを示しています。

### 大粛清が組織そのものに及んだ1937〜38年

スターリンの大粛清は、コミンテルンの内部にも及びました。犠牲者には、コミンテルン本部や関連組織の職員も含まれていました。被害が集中したのは、自国で非合法化されてモスクワに亡命していた党の幹部でした。ナチス・ドイツから逃れてきた共産主義者の一部は、ドイツへ引き渡されています。ソ連国内にいることが、そのまま内務人民委員部の手の届く範囲にいることを意味しました。

## コミンテルンの組織構成：世界大会・執行委員会・各国支部と傘下の国際組織

組織は三層でした。最高機関の世界大会が方針を決め、執行委員会（ECCI）が大会と大会の間の運営と各国への指示を担い、各国共産党が支部として実行します。執行委員会は少人数の幹部会を選び、その下に書記局を置きました。各国との連絡には1921年創設の国際連絡部（OMS）があたり、資金や指令の送達、旅券の作成、非合法の党のための隠れ家の手配まで担っています。方針の伝達は機関誌『共産主義インターナショナル』と通信『インプレコール』が受け持ち、後者は1938年7月に『ワールド・ニューズ・アンド・ヴューズ』へ引き継がれました。

党の外にも、分野ごとの国際組織が設けられました。

| 組織                        | 設立      | 対象          |
| ------------------------- | ------- | ----------- |
| 青年共産主義インターナショナル           | 1919年   | 青年組織        |
| 赤色労働組合インターナショナル（プロフィンテルン） | 1921年7月 | 労働組合        |
| 国際赤色救援会                   | 1922年   | 投獄された活動家の支援 |
| 赤色農民インターナショナル（クレスチンテルン）   | 1923年   | 農民組織        |

人材の養成も中央が抱えました。1921年に東方勤労者共産大学、1926年に国際レーニン学校が開かれ、各国から送られた活動家がモスクワで教育を受けています。1928年の規約では、執行委員会の決定は全支部を拘束し、各党の大会や中央委員会の決定を取り消し・変更する権限も執行委員会にありました。支部には世界大会への異議申立ての権利がありましたが、結論が出るまでは執行委員会の決定を実行し続ける義務を負っています。この構造が、解散の手続きにもそのまま現れます。

## コミンテルンの1943年解散：決議の手続きと戦時外交上の理由

「第二次世界大戦で連合国に配慮したため」という要約は外れていません。ただ、何にどう配慮したのかは、決議の原文と日付を追うと具体的になります。

### 5月15日・5月22日・6月10日の3段階と決議の原文

解散は一日では終わっていません。1943年5月15日、執行委員会幹部会が解散を提案する決議を採択して各国共産党に送り、5月22日に公表しました。各国党の賛成がそろった6月10日には、事務の清算と財産の処分にあたる4名の委員会の任命が発表されます。「コミンテルンはいつ解散したか」への答えは、決議なら5月15日、公表なら5月22日、清算の開始なら6月10日です。

[解散決議の英文](https://www.marxists.org/history/international/comintern/dissolution.htm)を読むと、手続きの異例さを決議自身が認めています。幹部会は、各国の党が成長し成熟したこと、戦時中にいくつかの支部から解散を求める声が出たことを理由に挙げたうえで、「世界戦争の条件のため」大会を招集できないとして、解散案を支部の承認にかける形をとりました。最高機関であるはずの世界大会は1935年の第7回が最後で、二度と開かれていません。『世界大百科事典』がスターリンは「規約に反してコミンテルンの解散にふみ切った」と記すのはこの点です。24年間、支部に規律への服従を求めた組織が、自らの終わり方では規約の手続きを通していません。

### スターリンがロイター記者に挙げた4つの理由（1943年5月28日）

公表から6日後、スターリンはロイター通信のハロルド・キング記者の質問に[書面で回答](https://www.marxists.org/reference/archive/stalin/works/1943/05/28.htm)しました。挙げた理由は4つです。モスクワが他国の生活に干渉して「ボリシェヴィキ化」しようとしているというヒトラー側の宣伝を崩すこと。各国の共産党が自国民の利益でなく外部の指令で動いているという批判を退けること。党派や信条の違いを超えて反ファシズムの勢力を結集しやすくすること。そして諸国民が対等に協力する将来の基礎を作ることです。

質問が英国の読者に向けたものだったとおり、4つとも運動の内側ではなく外側の目を意識した説明です。時期も重なっており、ローズヴェルト大統領の親書を携えた米国の特使ジョセフ・デーヴィスが、同じ1943年5月にモスクワを訪れていました。解散は運動論ではなく戦時外交の一手だったと読むのが自然です。国家が掲げる基本方針が対外的にどう使われるかは、[ドクトリンの意味・語源と歴代ドクトリン一覧](/column/details/7313/)でも整理しています。

## コミンテルンと日本共産党：日本支部承認から「防共」まで

日本との関係は、コミンテルンをめぐる議論で最も政治的な争点になりやすい部分です。ここでは確認できる経過と、日本共産党自身の公式説明を出発点にします。

最初に語の確認をしておきます。1936年11月25日に調印された日独防共協定は通称で、正文の日本語の条約名は「共産『インターナショナル』ニ対スル協定」、ドイツ語名は Abkommen gegen die Kommunistische Internationale です。「防共」の「共」が指していたのは、ソ連という国家ではなくコミンテルンという組織でした。前年の第7回大会の決議は、戦争の主な扇動者として「ファシスト・ドイツ、およびそれと結んだポーランドと日本」を並べて挙げており、この宣言が日独の提携交渉を後押ししたとされます。協定は1937年11月にイタリアが加わって日独伊防共協定となりましたが、1939年8月の独ソ不可侵条約で事実上の空文になりました。

### 22年・27年・32年テーゼ：モスクワで書かれた日本革命の方針

日本共産党は1922年に創立され、同年のコミンテルン第4回大会で日本支部として認められました。以後の方針は「テーゼ」と呼ばれる文書でコミンテルン側から示されます。1922年にブハーリンが起草した綱領草案（22年テーゼ草案）は、君主制の廃止をめぐる内部対立で審議未了に終わりました。党は1924年にいったん解党し、1926年12月に再建されます。1927年にコミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」（27年テーゼ）が新しい方針となり、1932年には片山潜・野坂参三・山本懸蔵らとの討議を経て「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」（32年テーゼ）が採択されました。

その後、弾圧が続き、1935年3月に獄外で活動していた最後の中央委員が検挙されて党の中央部は壊滅します。第7回大会の翌年、野坂参三らが「日本の共産主義者へのてがみ」で人民戦線を呼びかけたときには、受け取る組織はもう国内にありませんでした。日本支部は、コミンテルンの解散を待たずに実体を失っていたことになります。

### 日本共産党自身の総括：コミンテルンへの批判と戦前の党活動への評価

しんぶん赤旗2006年9月7日付の読者質問への回答[「コミンテルンとの関係 どう考える？」](https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-07/20060907faq12%5F01%5F0.html)が、党の公式説明にあたります。同記事は、コミンテルンの誤りとして「世界革命近し」という性急な情勢論、レーニンによる「議会の多数をえての革命」の道の原理的な否定、「単一の世界共産党」という組織形態にともなう各国の党と運動にたいする画一主義的な傾向を挙げ、「政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした」と総括しています。列挙は「など」で開かれており、3点に限っているわけではありません。

時期の区分も明確です。同記事は、日本共産党の加入から30年代前半までコミンテルンは「健全さをまだもっていました」としたうえで、37年から38年にスターリンの専制と弾圧が及び、以後は「各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆきました」と記します。旧ソ連での弾圧の犠牲者として杉本良吉、岡田嘉子、国崎定洞、山本懸蔵の名も挙げています。4人の帰趨は同じではありません。国崎定洞は1937年12月、山本懸蔵は1939年3月、杉本良吉は同年10月に処刑されましたが、岡田嘉子は自由剥奪10年の刑を受けて1947年に釈放され、1972年に35年ぶりの里帰りを果たしました。

一方で同記事は、当時の党は今日のような自主的な立場を自覚的にもつには至っていなかったとしつつ、天皇絶対の専制政治と闘った活動そのものは肯定的に位置づけています。コミンテルンの誤りの承認と、戦前の党活動への肯定的な評価が併存している回答であり、「誤りを認めていない」と一括するのは内容に合いません。

## コミンテルン・コミンフォルム・コメコンの違い

3つとも名前が似ていて、いずれもソ連が主導した国際組織です。違いは表のとおりです。

| 組織      | 正式名称          | 存続            | 目的             | 加盟主体           |
| ------- | ------------- | ------------- | -------------- | -------------- |
| コミンテルン  | 共産主義インターナショナル | 1919年3月〜1943年 | 世界革命の推進と各国党の指導 | 各国共産党          |
| コミンフォルム | 共産党・労働者党情報局   | 1947年〜1956年4月 | 情報交換と活動調整      | 欧州9か国の共産党・労働者党 |
| コメコン    | 経済相互援助会議      | 1949年〜1991年6月 | 東側諸国の経済協力      | 国家（原加盟6か国）     |

覚え方は「何を配った組織か」です。コミンテルンは革命の方針を、コミンフォルムは情報とソ連の意向に沿った活動の調整を、コメコンは経済援助と貿易の枠組みを配りました。前の2つは政党の組織で、コメコンだけが国家の加盟する経済機構です。コミンフォルム創設時の9党には、ポーランド労働者党やブルガリア労働者党（共産主義者）のように「共産党」以外の名称を持つ党も含まれ、そのため正式名称が「共産党・労働者党情報局」になっています。コミンテルンの後継と語られることが多いものの、支部を拘束する権限はなく、性格は同じではありません。

日付も資料によって書き方が揺れます。コミンフォルムは1947年9月にポーランドで開かれた会議で発足が決まり、10月5日に成立が公表され、1956年4月17日に解散しました。本部は当初ベオグラードに置かれましたが、1948年6月にユーゴスラビアが追放されてブカレストへ移っています。コメコンは1949年1月5日から8日にモスクワで設立会議が開かれ、1月25日に公表、1991年6月28日にブダペストの最終総会で90日以内の解散が合意されました。

コミンフォルムには日本に直接関わる出来事もあります。1950年1月6日、機関紙『恒久平和のために人民民主主義のために!』に載った「日本の情勢について」が野坂参三の平和革命論を批判し、党は所感派と国際派に分裂します。分裂が続くなか1951年に武装方針を含む綱領文書が採択されましたが、日本共産党自身はのちにこれを「51年文書」と呼び、党規約にもとづく正規の会議で採択されたものではないという立場をとっています。コミンテルンが解散した後も、モスクワからの指示という構図は残っていたことになります。

## コミンテルンを史料で確かめる：研究者の線引きと国会図書館のコミンテルン文書

コミンテルンほど、語り手によって像が大きく変わる組織は多くありません。読み手の側で、どこまでが史料で確かめられる話かを見分ける手がかりを2つ挙げます。

### 佐々木太郎『コミンテルン』が示す「史料で把握できる範囲」

2025年2月21日に刊行された佐々木太郎[『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』](https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/02/102843.html)（中公新書、320ページ）は、[公開されている「はじめに」](https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/126448.html)で立場を明示しています。一方で、コミンテルンが「多岐にわたる秘密の活動を実施し、ロシアの国益の追求にも深く関わっていた面があったことは紛れもない事実」であり、ソ連崩壊後に公開された史料がそれを明瞭に示すと書きます。他方で、活動の実態について「はっきりとした証拠のないまま」さまざまな政治現象と結びつける議論を「いわゆる陰謀論に類するもの」と呼び、「史料から実証的に把握できる以上のこと」を論じる姿勢は排されるべきだとしています。

史料を読む際は、文書に明記された事実と、その背景についての解釈を区別する必要があります。21カ条の条文、解散決議、スターリンの回答のように原文が公開されているものは原文で確かめ、因果関係の推測は史料が示す範囲にとどめる。コミンテルンの活動を過小に描く公式史観と、証拠なしに何でも結びつける議論は、どちらもこの基準で検証できます。占領期の検閲や歴史認識をめぐる言葉の使われ方は、[WGIPの目的・内容と「30項目」の正体](/column/details/10439/)と[自虐史観という言葉を誰がどう使うか](/column/details/10440/)で、同じく一次資料から整理しています。

### 国立国会図書館憲政資料室「コミンテルン文書―日本共産党ファイル」（YF-A22）

日本国内で原文書そのものにあたる手段もあります。国立国会図書館憲政資料室は、ロシア国立社会政治史文書館（RGASPI）のFond 495、opis’ 127に属する616ファイルを、マイクロフィルム132巻で所蔵しています（請求記号YF-A22）。[リサーチ・ナビの解説](https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/YF-A22.php)によれば、中身は日本共産党幹部からコミンテルンへの報告書・書簡、コミンテルンから日本共産党へのテーゼ・指示・書簡、日本の情勢に関する情報などです。収録期間は1916年から1941年ですが、1916年の文書は日露同盟協約書で、実質は1920年から1941年。オランダのIDC社が2004年にマイクロフィルム化して出版し、同館が2005年度に購入しました。

使う前に知っておくべき限界もあります。同じ解説は、コミンテルン各機関の会議記録は別のファイル群に綴じられており、このopis’にはほとんど含まれていないと明記しています。テーゼが「どう伝えられたか」は確かめられても、「どう決められたか」の議事は別の文書群にある、ということです。憲政資料室が作成した日本語訳目録がPDFで公開されているので、ロシア語が読めなくても該当ファイルの見当はつけられます。

## よくある質問

### コミンテルンとボリシェヴィキ、ソ連共産党はどう違いますか？

ボリシェヴィキはロシアの一政党（のちのソ連共産党）で、コミンテルンはその党が主導して作った国際組織です。組織としては別ですが、指導部と実務が重なっていたため、文献ではしばしば「ソ連がコミンテルンを通じて」と一体のものとして書かれます。

### ファシズムに対抗して自由主義者や共産党などが協力して結成した組織は何ですか？

人民戦線です。1935年のコミンテルン第7回大会が公式に承認した方針で、それまでの社会ファシズム論から大きく転換したものです。フランスとスペインで人民戦線政府が成立しました。

### コミンテルンの後継組織は何ですか？第四インターナショナルとの関係は？

後継として最もよく挙がるのは1947年のコミンフォルムですが、支部を拘束する権限はなく、性格は異なります。第四インターナショナルは、スターリン体制下のコミンテルンに反対したトロツキーらが1938年に結成した対抗組織で、後継ではありません。2024年に国際マルクス主義潮流が改称して発足した「革命的共産主義インターナショナル」も、名前は似ていますがコミンテルンとの組織的な連続性はありません。

### コミンテルンは現在も存在しますか？

存在しません。1943年に解散したあと、再建されていません。「インターナショナル」を名乗る国際組織は現在もいくつかありますが、コミンテルンの権限や支部関係を引き継いだ組織ではありません。

### コミンテルンの読み方と英語表記は？

読みは「こみんてるん」です。「コミュンテルン」「コミンテル」は誤記で、同じ組織を指しています。英語では Comintern、ドイツ語では Komintern と表記します。正式名称は英語で Communist International、ドイツ語で Kommunistische Internationale です。

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出典: [コミンテルンとは？簡単に言うと何か、目的・解散理由とコミンフォルムとの違い](<https://www.issoh.co.jp/column/details/10438/>)（株式会社一創）
